「天下五剣」や「天下三名槍」などの称号は冠されていなくとも、名刀と呼ぶにふ さわしい日本刀はまだまだ存在する。優美な姿、華麗な来歴、語り継がれる逸話。 一振りの日本刀が名刀と呼ばれるに至ったわけを見ていこう。おおかねひらの日本刀は、平安時代末期の刀匠・備前回包平作で「天下五剣」 安網と並び称される、最高傑作の太刀である。 身幅広く、反り高く、鋭く薄い刀身が斬れ味のよさを物語るも、罪人の死体を使 った試し斬りの記録もない。奇想天外な逸話も武勇伝もない。実戦に使用された形 の筆頭として紹介した童子切跡もない。それなのになぜ、これほどまでの評価がなされるのか。 日本刀に精通している者がこの太刀を前にすると、その気品と力強き、存在感に 圧倒されるという。また、磨かれて減るこ とのない健全さ。一点のムラもなく焼き上げられた刀身。まさに、日本刀界の大横綱の風格だ。 若いころから最前線で戦い続け、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた勇将・池田輝政の愛刀であり、現在は、国宝に指定され、東京国立博物館が所蔵している。 戦後、 GHQのマッカーサーが大包平を熱心に所望したところ、「ニューヨーク の自由の女神と交換ならさしあげよう」と、切り返されたとも伝えられている。
刀剣が日本で作られたのは古墳時代からといわれている。当時の刀剣のほとんどは、反りのない直刀だったが、平安時代中期以降、「湾刀」と呼ばれる反りのある刀剣が作られるようになった。 きっさきもろは この小烏丸は、直刀ばかりの時代に突如現れた湾刀であり、鋒だけが両刃という、獅子王の刀は七六歳の老兵・源頼政は、漆黒の妖気漂う刀に納められた一振りの太刀を侃いて、平氏を討つために出陣した。馬上からの斬下ろしに適した形状、刃長約106・5佃。頼政の、平氏打倒の強い気持ちが感じられる。この大太刀が「獅子王」である。 この近衛天皇の代、夜ごと御所に現れては大きな鳴き声を響かせ、天皇を脅かす妖怪がいた。猿の頭、虎の手足、狸の体、蛇の尻尾を持った「鶴」である。とうとう体 調を崩してしまった天皇は、あの酒呑童子を倒した源頼光の子孫である源頼政に、 鵡退治を命じる。みごとこの化け物を仕留め、その功績により賜ったのが、 この名刀・獅子王である。 老兵頼政は、平氏の先制攻撃を受け敗退、自刃する。彼の愛刀・獅子王は、同族 の土岐氏が守り、幕末を経て皇室に献上された。 平安時代に作られたとみられるが、詳細は不明。刀匠も不明。謎多き太刀である。 現在は、重要文化財に指定され、東京国立博物館が所蔵している。
足利将軍家が、天下五剣の鬼丸囲網、 名刀。実権を失った一五代将軍・足利義昭が手放した二つ銘則宗は、やがて豊臣秀吉の 手に渡った。数多くの日本刀を所持し、名刀には目がない秀吉のこと、この二つ銘則宗もコレクションの一つとすることには何も不思議はない。ところが入手してすぐに、秀吉は京都の愛宕神社に神宝として奉納したのである。 このエピソードが、二つ銘則宗のもつ稀有な権威を物語っている。 現在は、重要文化財に指定され、京都国立博物館で寄託・管理されている。 大典太光世と並ぶ第三の宝剣としてきた蛸時丸風水は、平安時代の万匠・五条国永の作万の中でも、もっとも優れた太刀といわれている が、作刀の地は不明である。 やすもり 鎌倉幕府の有力御家人・安達泰盛が所持していたが、幕府の政変により安達一族 事だと量 が滅びると、北条貞時の手に渡った。貞時は、この太刀欲しさに泰盛の墓を掘りお こしたともいわれる。
細身で鋒が小さくて優れた名刀である。 北条家から織田信長の手を経て、仙台藩の伊達家へもたらされる。維新後、 天皇に献上され、皇室の御物となった。