古今伝授(こきんでんじゅ)と名付けられている太刀が存在します。人を殺すための武器である太刀にも関わらず、文学的な名がつけられている不思議な太刀です。この大刀は、後鳥羽院御番鍛冶の一人である豊後国行平の鍛えた刀であり、また、戦国武将であった細川幽斎の愛刀であったために典雅な大刀銘を壇上させることになったと言われています。1600年(慶長5年)になると、関ヶ原の戦いの前哨戦として、徳川家康が奥州会津の上杉討伐の軍を起こしました。ちょうどその頃、石田三成が家康撃破のために兵をあげており、チャンスとばかりに徳川側と判断されていた幽斎側の後略に取り掛かりました。幽斎側の軍と言えば、嫡男である忠興が家康と共に北上していた最中で、城中には雑兵のみ、他の領民を合わせても500人もいないという手薄な状態でした。すでに決着はついているような状態で、幽斎は古今伝授を唯一継承している者の責任を果たそうと考えました。幽斎は武術各道に長けていた武人であった一方で、文化人としても有名でした。寄せ手の武将の中にも、彼の歌道の門人がいたそうで、攻撃を控え目にしていた者や、中には空砲を鳴らして攻撃をごまかしていたという人さえいたそうです。幽斎は密かに家臣を京都へ派遣しており、門下である八条宮智仁親王に古今伝授の証明状に添えて、一首を送りました。親王はこれを受けて停戦命令を出しますが、幽斎はこれを拒みました。ついには後陽成天皇まで動く事態になり、和睦の勅令を出して、やっと籠城は終わったといいます。関ヶ原の決戦はちょうどこの2日後に行われ、家康は幽斎の活躍を見て領地を与えようとしましたが、幽斎は固辞としてこれを受けなかったといいます。