腰刀の変遷

腰刀が書物で残っているものとして、古いものでは鎌倉時代の末期頃のものがあります。鎌倉時代末には、蒙古軍との合戦がありました。これは文永・弘安の役とも呼ばれており、日本にとっては、はじめての本格的な体外戦闘でした。これはモンゴル軍による対日本侵攻の呼称であり、二度に渡って行われたと伝えられています。モンゴル軍が襲来したことにより、鎌倉幕府は非常事態にありました。この戦いでは、従来体験をしていなかった集団の戦法や、モンゴル軍が使用していた短弓や半弓、矛の類の兵器の攻撃によって、大変な苦戦を強いられていました。この激しい戦闘の様子は、『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』に詳しく描かれています。画中では、竹崎季長(たけざきすえなが)という肥後の武士が、蒙古の軍船に討ち入り、蒙古兵の首を掻き切る場面がありました。このときに、右手に握っていた刀こそが「腰刀」と呼ばれるものでした。腰刀は合口様式と呼ばれている、鍔をつけない様式です。柄に筒金をはめてあり、差目貫で刀身を固定していることが特徴です。戦中には、上帯に大刀を吊って、そこに腰刀を差添としていたようです。腰刀は短く軽いために、持ち運びが容易でした。そのため、護身用として普段から帯用していたようで、武将の肖像画にもよく描かれています。拵の材料や文様などから、赤木柄腰刀、菊造(きくづくり)腰刀、牡丹造(ぼたんづくり)腰刀、柏木菟(かしわみみずく)腰刀、などと呼ばれていました。これらの遺品は鎌倉時代の中期頃から使われていたと考えられていますが、室町時代に入ってからは、太刀の差添から外れてしまい、別の形の短刀拵が作られていったそうです。

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